活躍する卒業生
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株式会社三十三フィナンシャルグループ代表取締役社長
株式会社三十三銀行取締役頭取 - 渡辺 三憲氏
着眼大局、着手小局
―デジタル時代だからこそコミュニケーション力を―
ーどんな学生時代でしたか。
名古屋で生まれ育ったのですが、高校一年秋に岩倉市への転居が決まっていたので、高校は滝に進学。滝中学校から進学した生徒に追いつくため早朝の補習事業を受ける必要があり、名古屋から通っていた時は朝5時起き。何しろ眠たくて、必死の思いで授業を受けていた思い出があります。記憶に残る先生としては、英語の岸先生。先生の自宅で教えてもらい、その親身な姿が思い出されます。名前を忘れてしまったのですが、世界史の髪の長い先生。すごく怖い先生でしたが、その教え方がユニークだった。ノートの右側を全部開けておけと言うのです。あとでもうちょっと知りたい、詳しく知りたいという場合に右側に、そのスペースに、何をもっと知りたいのか、知ってどうだったのか、などを書いておけと言うのです。これが実に受験勉強に役立ったのです。ノートを見返すだけで、参考書を見なくても、そこにエッセンスがすべて詰まっているので、すごく覚えやすかったのです。
そのおかげか、名古屋大学経済学部に入学。大学時代4年間はたっぷりと社会勉強とクラブ活動(ゴルフ部)に没頭しました。
ー金融業界に入ろうと思ったきっかけは何ですか。 就職はすぐ上の兄が三井物産で働いていて話を聞いていたので、商社に行きたいなと漠然と考えていました。当時は就職活動解禁日が10月1日と一応決まっていたので、その日から商社を回ろうとしていた折、9月15日に突然、ゼミの先輩から、就職活動するうえで参考になることもあるので飯でも食べようと電話があり、食欲には勝てず行ったのです。その先輩というのが住友銀行の人でした。先輩の顔もあったので、就職活動解禁日にまず住友銀行名古屋支店に行きました。それからとんとんと住友銀行本社の面接までいき、就職先は住友銀行となってしまったのです。商社には訪問すらできませんでしたし、銀行志望でもありませんでしたから、役員面接で銀行を志望した理由など聞かれた時は、はっきりとゼミの先輩に誘われたからと答えていました。
ー金融業界に入られてからどんな道のりを。
昭和53年住友銀行に入行。最初、東京の日比谷支店で基礎をたっぷり勉強しました。窓口業務の人の後ろに座って、銀行マンとしての基礎を学び、その後、貸付係にいってローンの勉強をしました。2年後、名古屋支店に異動、7年半いました。その間はずっと外回りの営業で、テリトリーを決められ、その中にある個人、法人すべてがお客さんでした。当時、名古屋では東海銀行が圧倒的シェアを誇っていたので、そこに食い込むには、住友銀行ならではのメリットを打ち出さないと厳しい。法人には、新しいお客さんの紹介、業務斡旋、マッチングなどを提案。そうすることで、賞与資金などを借りてくれるなど、新規の取引をしてくれたのです。個人宛にひたすら訪問をし、話しをすることで、まずは信頼関係を築くことから始めました。お客さんの少しでも困っていることを引き出して一緒に考え、そこで初めて口座を作ってくれたりしたのです。
その後また、東京に戻り、マッキンゼーのコンサルにより、大企業取引だけを一つの組織に集め、知見を高めるべくできた東京営業二部に配属になりました。この二部は建設不動産業界を担当する部で、9年半いました。バブルが花開き、全盛を誇り、その後バブルが崩壊した激動の期間でした。建設、不動産業界はバブルの最大の恩恵に授かったとともに、そのバブルの崩壊により大きな損害を被った業界でした。平成4年後半ぐらいから、各社、坂から転げ落ちるように落ち込みましたから、その後処理も大変でした。ただ、その9年半は、銀行マンとしての私を大いに育ててくれたと思っています。
銀行マンの楽しさ、面白さは、あらゆる業種の人、会社と付き合いができることです。私が入りたかった商社では、入社した時点で畑が決まってしまいますが、銀行は様々な業種の人たちと関係ができ、さらにその会社の金融に携わることで、お客さんのすべてを知ることができます。それをもとにしてお客さんにいろいろなサービスを提案する。今、銀行マンの仕事は、コンサルタントとしての役割がどんどん増えています。金利では収益があがらない時代なので、コンサルタント的なことをし、しかるべき手数料をいただくことで業績が成り立っています。そうしたところに銀行マンとしてのやりがい、楽しさがあります。
地方銀行がかかえる大きな問題は地域の人口、事業者数が減っていくということです。中小企業や個人のお客さまへ高度な金融サービスを提供し、地域経済活性化に貢献したいと思っていても、その対象がどんどん減ってしまえば、提案の機会が減ってしまう。つまり収益を確保する機会が減ってしまうことにつながります。それを改善する一番の方法、手段が合併なのです。三十三銀行は令和3年5月に、三重銀行と第三銀行が合併してできました。三重銀行は四日市に本店を置き、三重県北西部中心としたテリトリー。そこに松阪に本店を置き、尾鷲、熊野から紀伊半島、和歌山、大阪南部までをテリトリーとする第三銀行が加わった。テリトリーが広がるということは、お客様の数が増える。提案する対象が増え、地域に対する役割がぐんと高まりました。各行がもったそれぞれの強みを広がったエリアで活かす。そのことでより一層、地域に貢献でき、地域とともに成長し続けていけるのです。
ー座右の銘は。
「着眼大局、着手小局」
物事を大局の見地から見ながら、目の前の小さなことから実践するという意味の言葉です。大谷翔平選手が高校一年生の時に作った「大谷翔平目標達成シート」がこの言葉を説明するのに分かりやすい。大谷選手は「ドラ1、8球団」という大きな目標(大局)をたて、それに向かって細かいことを実践するというシートを作成。「体づくり」「コントロール」「キレ」「メンタル」「スピード」「人間性」「運」「変化球」の8項目でそれぞれ何をやるかを決め実践していったのです。「メンタル」では、雰囲気に流されない、仲間を思いやる心など。「体づくり」では夜7杯・朝3杯など。「運」では、ごみ拾いをする、部屋そうじをするなど。こういったことをこつこつやることで、当時の大局のさらに高みの「大リーグ二刀流でMVP」という大局を実現したのです。
三十三銀行の銀行マンにおきかえると、質の高い地域のナンバー1銀行にしようというのが大局。それに対し、日々、新規のお客さんの開拓、自分のお客さんがうまくいっているのかの確認、さらに新しい提案をするのが小局。毎日こつこつとこれをやることで大局に近づいていくのです。新入社員に対しても、支店長会議でもこの言葉を言います。もちろん、自分自身に対しても常にこの言葉を念頭に日々業務に携わっています。
ー滝学園の在校生、卒業生に対し、生きてゆくうえでの助言がありましたら。
滝学園の在校生の皆さん、そして若者に言いたいのは、入社3年で3割の社員が退職するという実態に対する寂しさです。「3年3割」なんて言葉がありますが、「地域のために役立ちたいと銀行に入りました」と言っていた社員が、地味な窓口業務、外回り営業などに嫌気をさし、「私はM&Aを銀行でやりたかったのです」とか言って辞めていく。銀行マンとしての仕事の楽しさ、やりがいを知る前に辞めてしまう。それが寂しい。
3年で辞めていってしまう原因の一つは、若者のコミュニケーション力の欠如があると思っています。先輩、お客さまとのコミュニケーションの中でいろいろなことに気づくのです。社会人としての営業という業務から、人と人とのつながりが始まるのです。担当者と顔を合わせ「最近お痩せになりましたね」から会話が始まり、ビジネスが始まるのです。顔と顔をあわせてしっかりコミュニケーションをとることで仕事が始まり、一緒に成果をあげることで働く喜びを知る。自分はお客さまのためになったと思えて、初めてやりがいを感じるのです。そこに行く前に辞めてしまう。デジタル時代だからこそ、コミュニケーション力の価値が高まっているのではないかと思います。
Profile
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渡辺 三憲わたなべ みつのり
株式会社三十三フィナンシャルグループ 代表取締役社長 株式会社三十三銀行 取締役頭取 -
- 1954年11月愛知県名古屋市生まれ
- 1978年3月名古屋大学経済学部卒業
- 1978年4月株式会社住友銀行(現 株式会社三井住友銀行)入行
- 2004年4月株式会社三井住友銀行執行役員
- 2008年4月同行常務執行役員
- 2011年4月同行取締役兼専務執行役員
- 2013年5月株式会社三重銀行顧問
- 2013年6月同行副頭取執行役員
- 2013年6月同行取締役副頭取兼副頭取執行役員
- 2015年4月同行取締役頭取
- 2018年4月株式会社三十三フィナンシャルグループ代表取締役社長
- 2021年5月株式会社三十三銀行取締役頭取
株式会社三十三フィナンシャル・グループ :https://www.33fg.co.jp/
株式会社三十三銀行 :https://www.33bank.co.jp/ ※プロフィールは、取材日(2023年5月23日)時点の内容を記載しています。