活躍する卒業生

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認定NPO法人 プラス・エデュケート理事長
森 顕子
旧姓:一海、平成元年卒

「利他の心を持つ」
~日本語指導を通し、社会問題に取り組む~

森 顕子 氏 人手不足と言われる昨今、外国人が日本国内で多く就労しています。外国人が増え、日本語教育の環境が未だ整っていなければ、日本語が全く分からない子どもも当然多くなります。2022年文部科学省による報告では、日本語指導が必要な児童生徒数は、約6万人にもなっており、とりわけ、日本語が話せない外国ルーツの子どもは、愛知県が最多となっています。この社会問題に目を向け、外国にルーツを持つ子ども(※1)への日本語教育・教科学習支援を対面とオンラインで行うNPOを立ち上げ、日本語教育に取り組んでいる森顕子さんにお話を伺います。

ー滝学園時代、どんな生徒でしたか。  滝には高校から入りました。いわゆる“外普”です。中学生時代はそれなりの成績でしたので、高校受験が終わったら、一息つけるものと思っていました。それが大きな間違いで、滝中からの“内普”に追いつけと、昼の授業はもちろん、夜の補習授業まで勉強漬けの毎日。試験も追試ばかり受けていました。そして、完全に気持ちが引いてしまいました。劣等生意識も根付いてしまい、滝では勉強の面では全くいい思い出がありません。
 そのかわり、同じように疎外感や滝の校風に違和感を持っている人たち数人で、勉強から逃げるようにバンドを組んだり、文化祭のイベントに参加したりしていました。内普の中にも同じ思いを抱いていた人がいて、「やっと仲間が出来た」と。そんな彼らとの学園生活が滝の思い出のすべてです。勉強面ではマイノリティーの存在で、自身の中身はどっちかというと暗めでしたが、滝で楽しく過ごせたのは、この仲間たちのお陰でした。
 高3になり、大学進学を考えた時、何になりたいかとかもなかったのですが、父親が公立高校の教員をしていたこともあって、親からは愛教大(愛知教育大学)を勧められました。女性も手に職をつける方がいいと親は考えていたのでしょう。ただ、父親みたいな威圧的な教師には絶対になりたくない。言わば、公立の教員にはなりたくないと思っていました。その考えのもと、愛教大の学科を調べていたら、日本語教育という分野を見つけました。当時、まだ卒業生が出てない、新しい学科で、日本の大学でこの学科があるのは数校という新鮮さがあったのに加え、卒業して日本語教師として世界に出てみたいという気持ちが生まれ、そこに決めたのです。

大学時代は何を学ばれ、どんな生活でしたか。  大学では、学問より恋愛とアルバイトに熱中。2年生までの教養課程では講義もありふれたものばかりでつまらなく、アルバイトに明け暮れていました。アルバイトは、接客業を経験し、世の中には色々な人がいるんだなと、同年代の同じ考えや境遇の人たちで固まりがちな学生とは違う世界に触れ、とても面白かったです。3年生になり、専門課程に入って、すごく面白くなりました。私たちにとって当たり前の「日本語」を「外国語」としてとらえてみると、新たな発見や気づきがあり、日本語の面白さ、奥深さを感じるようになったのです。卒業後の進路については、海外で日本語教師ができないかと探したのですが、常勤での仕事がなく、給与水準もかなり低いことが分かりました。現時点では日本語教師としては自立できない、それなら、まずはお金をためて数年後にその道に進もうと考えたのです。それで、民間企業、塾の講師になりました。

NPOを設立されるまで、どんな歩みでしたか。
また、NPOを設立しようと思ったきっかけは、何ですか。
 男女雇用機会均等法ができてまもなくの時代、その塾は男女分け隔てない待遇で、教師の個性を大事にするという、私にはぴったりの企業でした。教師という仕事の面白さも感じ、名物教師にもなって、子どもたちが私についてきてくれる状況にもなり、それなりの給料をもらっていました。しかし、人気教師になればなるほど休みがなくなり、管理職に近い仕事も任されて、ストレスから体調を崩してしまったのです。30歳を過ぎた頃のことです。結婚をしたこともあって、退職し、名古屋に戻ってきました。
 仕事を辞めてみて、ようやく子どもが欲しいと思いましたが、そのうちにできると高をくくっていました。しかし、いっこうに授からなくて、35歳で不妊治療を始めました。顕微授精での治療をすすめられた直後は、命の誕生に人為的手段を用いることは、倫理に反するのではないかとすごく悩みました。普通に子どもはできると思っていたのに、そうではないんだという現実もなかなか受けとめきれませんでした。顕微授精も失敗が続き、3年たったころには、身も心も疲れ切ってしまい、「もう治療はやめよう。」と考えていた時、大学の同級生から電話があったのです。海外で日本語教師をしていた同級生の女性が、現地のストリートチルドレンに襲われ亡くなったというものでした。それが2009年のことでした。
 亡くなった彼女は、北海道出身ながら、海外で日本語を教えたいと、愛教大に入学してきた学生でした。卒業後はしっかりとその道に進み、亡くなった時はモンゴルで日本語教師をやっていたということや彼女の功績について同級生から話を聞き、当時の日本語教育の現実を知ることができました。私たちが卒業した20年前は、日本語教師はほとんどが海外でしか必要とされなかったのが今は、国内で日本語教育を必要とする子どもたちがどんどん増えていて、困っているのだということを聞き、私の中で何かがぐっと動くのを感じました。
「そうだ。私が彼女の遺志を継ごう。困っている子どもたちのために何かしよう」と。
 その後調べてみると、国内では、日本語が話せない外国ルーツの子どもは、愛知県が最も多いことが分かりました。他にも、外国から家族で日本に来て、親たちはすぐに仕事につく。一方子どもたちは学校に入るが、日本語が一切分からないことで不適合を起こし、学校から離れてしまう子どもがいることや、日本で生まれ育った子どもの中にも、日常会話はできるが、勉強についていけない子が多くいて、それは単純に知能が低いわけではなく、日本語の理解ができていないからだと考えられること。そしてそのような子どもたちを受け入れる日本語教室は、ボランティアの人たちが好意で行っているものがほとんどで、それも週に1回、1~2時間の支援という、とてもそんな子どもたちを救うというレベルのものではないということがわかりました。

NPOではどんな日本語指導に取り組まれていますか。  まずは、語学を身につけるためには毎日教育できる場所を探そうと思い、いろいろ物件を探し、そうしてこの豊明団地の空き店舗を見つけました。豊明団地は55棟あり、豊明市に住む外国人の9割が住んでいるといわれていました。そこで、外国ルーツの子どもに対する夏休み学習支援教室を、私一人で始めました。実際に支援を始めて痛感したのは、行政からの助成金、企業からの支援金なくしてはこの事業は成り立たないということ。幸いにも、2009年~2014年度まで行われた文部科学省の「定住外国人の子どもの就学支援事業」に関わることとなり、それにより行政とのつながりができました。現在では豊明市はじめ、碧南市、半田市から日本語初期指導教室事業の委託を受けることができています。全く日本語がわからない外国ルーツの子どもたちには、まずは3ヶ月間集中して特訓することが必要です。教え方は、多国籍の子どもを相手にしても理解させられるよう日本語を日本語だけで教えていくというダイレクトメソッド(※2)を取り入れました。また、ひらがなから教えるのではく、文字表記を極めて少なくし、絵で場面を示して、子どもにとって実用的な日本語表現が使えるような教材と指導法を考案しました。この初期指導でどれほどのレベルまで引き上げられるかによって、日常会話の次に必要な教科理解にうまくつなげられるかが変わるので、子どもたちにとっては今後を左右するものだと言えます。先述した3市は、その点を理解してくれ委託につながりました。行政の関わりがなければ、日本語教育の機会が得られない子どもたちが生まれてしまいます。全国で質の高い日本語教育が受けられるようになってほしいと考えます。
 日本語が全くわからなかった子どもが日本語を身につけ、コミュニケーションが可能になることは本人の自信につながり、生き生きと学校生活を送っている姿を見ることは、何にも代えがたい喜びです。日本語教室を卒室するとき、学校の教室で、国際理解教育の一環として、みんなの前で母国のことを日本語で発表します。ブラジル、カンボジア、ベトナムなど国籍の違う子どもたちが、母国のことを日本語で紹介し、そのあとクラスの友達からの質問に日本語で答える。その誇らしげな姿を見ると、すごく幸せな気分になります。
 現在、日本語指導が必要な子どもは6万人いて、その殆どが十分な日本語指導を受けられていません。一つの要因に、教師不足があります。教師の育成が今後のテーマで、プロの日本語教師の育成に力を入れていきたいと考えています。この仕事は、ボランティアでやるには限界があるからです。子どもの日本語教師は、しっかりした知識、スキルと情熱がないとできないことを痛感しています。これまでの活動で日本語教育と学習支援などで指導した外国ルーツの子どもは1500名を超えました。今では全国から視察がきています。愛知県から始まったこのシステムを全国に広めたいです。それにもやはり行政の協力が必須であると強く思います。

◆プラス・エデュケートにおいて独自開発した日本語教材

趣味は、何でしょうか。何か今はまっていることはありますか。  趣味は読書、音楽、最近始めたゴルフですね。読書は自分では体験できないことや未知の世界を知ることができて楽しいです。音楽は高校時代にバンドでボーカルやっていましたが、今でもおじさんおばさんのバンドでボーカルやっています。歌うことでストレスが発散されるのです。ゴルフもそうですね。やってみたら意外に楽しく、こちらもストレス発散に役立っています。でも、一番好きなことは、「お酒を飲みながら気の合う仲間と話す」ことです。高級ワインが全く分からないので、様々な産地や品種を変え、安いワインを飲みながら、みんなでワイワイやる。それが最高です。

座右の銘は。  座右の銘は「利他の心を持つ」です。自分のことより他人の利益や幸福を願う、他を思いやることで、稲盛和夫(※3)という偉大な経営者が大切にした考えです。何のとりえもない自分が地球上のあらゆるものから恩恵を受けて生きている。それでいいのかと思った時に、この言葉に出会いました。私が生きている意味は、せめて困っている人や周りにいる人たちを幸せにしていくことだと考えています。

滝学園の在校生、卒業生(二十歳代の若手)に対し、今後の進路を決めていくうえ、さらには、生きてゆくうえでの助言がありましたら。  学生時代、自分がやりたいことは何なのか、自分が好きなことは何なのかなど全く考えていませんでした。勉強はできないし、かといって音楽に才能があるわけでもない。そんな私にも大して努力したわけでもないのに、人から褒められたり感心されたりすることがありました。それが「教える」ということだったのです。教員だった父親とはそりが合わず、教師にだけはならないと思っていたのが、何の導きか、教師をやってみて、これは“得意”なのかもしれないと気づきました。そして、一生懸命教えることをやってみたら、子どもや保護者から感謝され、そのうち教えることは「好き」になり、人に「その技術を教えてほしい」と言われるようになりました。必要とされる教師として認められていくにつれ、教えるということが実は得意で大好きだったことがわかったのです。それが今の仕事につながっていると思っています。
 自分は何が得意なのか、何に向いているのかはやってみなければわかりません。だからこそ、好きなことや挑戦したいことがある人はすぐに実践してください。特にそのようなものがないという人は他人に勧められたことにトライしてみてください。何にでも関心を持ちそしてチャレンジしてみる。そこから自分の得意な分野が見つかり、自分の生きていく方向が見えてくると思います。
 加えて広く社会のことに関心を持つことも重要です。あまり気負わずに日頃生活していて感じる違和感や疑問・不安などをきっかけにして、その問題に目を向け、考えることから始めてみてはどうでしょうか。そこから何かつかめることも大いにあります。そしてそれが周りの人々を幸せにできることにつながるかもしれません。
 あと、この効率性重視の時代だからこそ、「無駄なこと」を大事にしてください。友人ともメールやラインだけで話すのではなく、リアルに話すとか友達と飲み明かすとか、「夏休みに自転車で日本一周する」とか。AIができない、無駄で非効率なことが、リアルな人間である自分に活きてくることがあるのではないでしょうか。

※1 外国にルーツを持つ子ども
国籍に関わらず、両親またはそのどちらか一方が外国出身である子どものこと。

※2 ダイレクトメソッド
ダイレクトメソッドとは、日本語直接指導法とか直接法と呼ばれ、日本語だけで授業を行う方法。メリットとして、学習者の国籍は関係ないので様々な国籍の学習者がいる場合に有効。デメリットとして、指導準備に時間がかかることと、学習者の文法の理解に時間がかかる。他の指導法として、インダイレクト・間接法があり、学習者がわかる言語(母語など)で授業を行う方法がある。メリットとして、文法や語彙の理解が早い、ストレスが少なく勉強が出来る。デメリットとして、聴解力が上がらない、会話力が上がらないとか、全ての多言語に対応する必要があり教師の語学力が重要となる。また、子どもが幼くて母語自体習得出来ていないことがあると、間接法での指導が厳しい。

※3 稲盛和夫
1932~2022年 実業家。1959年京都セラミック株式会社(現:京セラ株式会社)設立。1984年第二電電企画株式会社設立、2000年株式会社ディーディーアイ(現:KDDI株式会社)設立。2010年には株式会社日本航空(現:日本航空株式会社)の会長に就任し、経営再建に尽力。
稲盛氏の独特な経営手法は「アメーバ経営」と呼ばれた。1983年から始めたボランティアで、経営者が集まる経営塾「盛和塾」で塾長を務め、14,938人の塾生に経営者の育成の心血を注いだ。また、1984年公益財団法人稲盛財団を設立し、科学技術や文化事業にも力を注いだ。

Profile

森 顕子もり あきこ

認定特定非営利活動(NPO)法人 プラス・エデュケート 理事長 森 顕子さん
  • 1970年10月愛知県丹羽郡扶桑町生まれ
  • 1993年3月愛知教育大学総合科学課程日本語教育学科卒業
  • 1993年4月進学塾 講師(株式会社さなる)
  • 2003年3月同 退職
  • 2003年4月浜松日体中学校・高等学校 非常勤講師
  • 2006年3月同 退職
  • 2009年7月任意団体 プラス・エデュケートを設立
  • 2012年3月特定非営利活動法人設立が認証される
  • 2012年4月特定非営利活動法人 プラス・エデュケート 理事長
  • 2020年11月認定特定非営利活動(NPO)法人 プラス・エデュケート 理事長(現任)


※プロフィールは、取材日(2024年2月18日)時点の内容を記載しています。

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